福島県議会選挙に向けて

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    福島県議会選挙が近いですね。(11月10日)

    一応参考までにこんな資料が手に入ったのでご覧下さい。

    要するに、各党各会派がどのような主張をし、

    どのような政策を考えているか、

    それが一覧ですぐにわかるというもの。

     

    上の写真、給付型奨学金の拡充を求める意見書や

    給食費無償化を求める意見書については、

    まあ共産党は当然○でしょうけれど、

    連合が×ですからね、

    連合と言っても所詮こんなもの、という印象はぬぐえませんね。

    既成の政治の枠から逃れられないのでしょうね。

     

    下の写真、真ん中あたりから。

    消費税10%に関して、共産党以外は、

    それが国民生活市民生活にどう影響するか、

    ほとんど考えていない、

    そんな風に見受けられますね。やる気あるんか?

     

    若者がいきいきと労働できる環境作り、に関しては

    党派を超えて協力しなくちゃいけないでしょう。

     

    神戸の教員による教員へのいじめ事件。

    その背景には教員の職場の過酷な状況がある。

    若い教職員のなりても少ないと聞く。

    さて、各会派はどう考えるか。

    教職員への配慮は、共産以外は、×。

     

    学校の統廃合問題についても、保護者生徒住民の意見を聞いてから実施して欲しい

    と言う要望も、共産以外は×。

     

    というわけで、あくまで参考までに。

     

    また、この資料は、教育系の組合新聞の記事です。

    資料は県議会HPから抜粋されていますが、

    それなりのバイアスもかかっているでしょうし、

    こうして文章を書く側にもバイアスかかっていますので、

    そのあたりはどうぞご容赦を。

     

     


    「はだしのゲン」の閲覧制限

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      某月某日


      中沢啓治さんが描いた「はだしのゲン」にたいして
      松江市教育委員会が閲覧制限をした。
      旧日本軍が、アジアの人びとを虐殺する場面などが教育上好ましくない
      と判断されたというわけだ。

      で、これを受けて、文科相はなんと言ったか。

      「問題ない」

      だそうです。「教育上好ましくないと考える人が出てくるのはあり得る」だって。

      ただただ、あきれてしまうばかりだ。
      日本政府は、太平洋戦争で自分たちが何を行ってきたのか、
      そこから目をそらしたい、そこからごまかしたい、
      そういう考えなんだろうな、ということがよくわかる。
      中沢さんは、原爆の悲惨さを訴えかけようとしたとき、
      それが単なる被害者の姿を描くだけでは足らず、
      我々自身の悪と向き合わなくてはならないと考えたはずだ。
      そして、加害者であれ、被害者であれ、
      原子爆弾というものは、人類に落とされた爆弾なのだ、
      こんな時代に我々はどう生きなくてはならないか、
      そう考えたはず。
      それこそが、この漫画のテーマだろうと思う。

      ところが松江市教育委員会は言う。
      「子どもたちが内容を誤って解釈する恐れがある」

      あの漫画を誤って理解する?

      おまえたちが誤って理解してるだけなんじゃないかって思う。
      それに、どのように理解されようが、
      漫画作品に正しい理解、誤った理解などというものはあるんだろうか?

      こういう大人のおせっかいが子どもをダメにするんだけどな、と思う。

      それから文科相。
      おまえ、ちゃんと「はだしのゲン」読んだのか?
      あのメッセージ受け取ってるのか?
      だとしたら、あれを広く日本の子どもに伝えるというのが、
      日本の教育の基本になるべきなんじゃないか。

      こういうニュース、ほんと情けない。




      「教師 宮沢賢治のしごと」(畑山博著)を読んでいる

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        某月某日


        「教師 宮沢賢治のしごと」(畑山博著 小学館ライブラリー)を読んでいる。

        宮沢賢治の詩を読むにあたって、
        教師としての宮沢賢治というものを、すこしおさらいしておこうと思った次第。

        すでに読んで、ある程度は分かっていたけれど、
        いやはや、この時代に宮沢賢治が、これだけのことを知って、
        これだけの教え方をしていたとは、改めて敬服。
        賢治にとって、教育とは芸術だったんだなと痛感。

        農業や科学を担当しながら、「土」とは何かを教える下りなどは、
        いやはや、私も賢治に教えてもらいたかったなあ、
        そうすれば、理系に進んだかも…と思ってしまいました。
        地球が生まれたときから始まって、それが冷やされ、
        その表面が風や雨に砕かれ、
        植物や動物の死骸が堆積し、
        「土」になっていった…
        などと教えられれば、
        「土」というものが単なる物質ではなく、
        命の源であるということを生徒たちは察したことだろうと思うのですね。
        そして、そこから知識、いや、知恵というものが
        生徒たちの身体に染み渡っていったろうと思うのです。

        演劇教育に興味を持っていた、というのも面白い。
        農民が、自分たちのありかた、社会のあり方にどう気づいていくか、
        劇を演ずることによって、だんだんに気づかせようという狙いがあったんだろうね。
        教えるのでなく、気づかせる。
        教育の原点。

        しかし、文部省は1924年学校演劇禁止令を通達する。

        やれやれ。

        まだ読んでいる途中だけれど、
        賢治の教育の現代性というのは、すばらしい。
        当時の常識では理解できなかっただろうと思う。
        でも、生徒たちにはちゃんと理解できた。

        教育の価値というものを、もう一度改めて考えてみる必要があると思いますね。



        これじゃ、だまされちゃうよ

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          某月某日


          夏休みに、愚息が読むのにふさわしいいい本はないかな〜と思って、近くの本屋に行く。

          ところが、以前とは児童書のコーナーが様変わりしていて、驚いた。
          場所が変わっているだけでなく、置いてある本がすっかり変わってしまっているように感じた。

          簡単に言うと、しょぼい本しか置いていないのだ。

          しょぼい本って言ってもわからないかもしれないけれど。

          とにかく、漫画の学習本とか、いかにも売れ線のわかりやすい本とか。
          (といっても、わかりにくいかな)

          もっと言えば、岩波少年文庫がまったく置いていない。
          古典的な名作がまったく置いていない。

          名探偵コナンとかドラえもんシリーズ学習本ばかり。
          あとは齋藤孝の10分で読める名作シリーズ。

          まあ、こういうのしか売れないんだろうな、という本ばかり。
          これじゃあねえ…。

          ドリトル先生なんかまったく本棚にないし、
          日本の児童文学の名著などもまったく見ることが出来ない。

          思い切りためいきをついてしまいました。

          これじゃ、本を読む子どもが減るのも当然だと思わずにはいられない。
          そして、考えることを拒絶する子どもばかりになってしまう。

          哀しいかな、これが福島の現実なのだろうか。

          一つ考えられるのは、
          まともな本を読むような階層の家庭の子どもたちが、
          すでに福島から避難してしまって、
          福島の本屋で本を買わなくなってしまった、という現実があるかもしれない
          ということ。

          あの原発事故についてまともに考える家庭は、
          とっくに福島から離れてしまっているので、
          本屋もかつてのように良書を置いて商売が出来なくなったのかもしれない。

          だとすれば、福島の将来は暗いなあ。
          放射線の不安があり、
          運動や外遊びにも差し障りがあり、
          その上に、読書という知的な遊びさえ、満足に楽しめない。
          スナック菓子のような読書で事足れり、とするような風潮の中、
          真剣に考え、自分の頭で判断しようとする子どもを
          いったいどうやって育てることが出来よう。

          こういう状況を見て思うのだけれど、
          なぜ福島で原発事故が起きたのか、という結論が見えてくるような気がする。

          問 なぜ福島で原発事故が起きたのか。

          答 福島が、そもそも今のような福島だったから。
            つまり、そもそも福島にはまともに何かを考える人間が少なく、
            その時金になればいい、
            その時都合がよければいい、
            そういう考えに魂を売ってしまったから。

          そんな自虐的な答えが導き出されてしまうのでした。

          いやはや、みんながみんなそんなことはないとは思うけれど、
          しかしねえ、名前はいわないけれど、その本屋の児童書コーナー見てください。

          哀しくなります。

          人間って、ここまで明るく落ちぶれることが出来るのか、って思います。

          というわけで、それでも、愚息には、
          ドラえもんの「音楽事典」のようなものを買いました。
          その中で、「64分音符があるんだ〜」って喜んでましたけどね。

          ふ〜。

          これは本屋ばかりじゃなくて、福島の市民の問題だと思うな。

          もっと子どもが良書に触れられるような雰囲気にしようよ。




          「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」

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            某月某日


            教科選択に関わって、若い人たちといささか話をすることがあったのだけど、
            「進路はどう考えている?」と質問すると、
            大抵の場合、
            「う〜ん」と濁った答えを聞くことが多かったですね。
            つまり、進路に迷っている、その迷いが選択しきれない、
            そういうことのように受け取れました。
            ま、そりゃ、進路に迷えば、何も選択できないわな。
            「あれもこれも」と思えば、どれも欲しくなるから。迷っている限り何も決まらない。
             
            ただ、ここで、一つ踏ん切りをつけて欲しいなとは思いますね。
            そもそも身体は一つしかない。
            仮に大学に2校合格しても、行けるのは一つなんですからね。
            基本的に進路というのは、

            「あれもこれも」

            はあり得ない。

            「あれかこれか」

            ただ、今は、そんな当たり前のこともなかなか通じにくくなっているのかも知れません。
            その気になれば何でも手に入る裕福な時代だからねえ…。

            自分のことをいうのは恐縮だけれど、
            家が決して裕福ではなかったら、最初っから国立のみ。
            浪人は許さない。
            自分で勉強しなければ、大学なんか行かなくても良し、
            と宣告されていた。
            選ぶ余地なし。
            ただ、どの学部でもやりたいことならいい、とは言われていたのが救い。
            いま思えば、「文学部」なんてよく行かせてもらえたと思うけど、
            とにかくそこだけは自分で決めた。
            で、文学部がある国立というと…、
            というわけで、その中からここか、あそこか、これしかないか、
            と自然に決まらざるを得ませんでしたね。
            だって、それしかないんだもん。
            で、そうなったら、自分をその方向に合わせていく。
            何はともあれ、勉強する。
            勉強しなかったら?
            他に道はない。

            自分にあった選択をする、なんてよく言うけれど、
            私は、ほんとうはそんなものはないと思いますけどね。

            自分が選択した道に自分を合わせていく、

            というのが本当なんじゃないかなと思います。
            そもそも自分が選択した道が正解かどうかなんてわからない。
            だから、自分が選択した道を、
            これからどうやって正解にしていくのか、
            その努力が大事なんじゃないかな。

            国立の文学部って決まった後は、
            あとはやることがはっきりしましたね。
            とにかく、出来る限り本を読む。
            2次試験には数学もあるから、文系でも数学をやりきる。
            部活(ボート部に入ってました)となんとか両立する。

            もちろん失ったものもありますよ。
            付き合ってた女の子(付き合ってもらっていた?)とは、
            なんかうまくいかなくなったし、
            ほとんどテレビも見なかったから友達ともそんなに会話が弾まなかったなあ。

            でも、その反面、いろんな本を紹介してくれる先生にも出会えたし、
            今生きている世界とはちがう深い世界があることも知りました。

            思うに、何を選ぶかではなくて、
            どう選ぶかなんでしょうね。

            そこに、その人の本質が現れてくるように思います。






            体罰がなぜなくならないのか

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              某月某日


              NHKクローズアップ現代。

              体罰はなぜなくならないのかを特集。

              その中で、かつて部活動で体罰を受け、
              そのことを奇貨に二度と体罰が行われないようにと
              教育委員会に告発をしたかつての生徒のインタビューがあった。

              教育委員会に告発してその教師は停職3ヶ月に。
              戻ってくるときに保護者は心配したが、
              当時の管理職は「反省は十分である」とした。
              しかし、その教師が職場に復帰するや、また体罰が始まった。
              まったく告発は生かされず、
              管理職も体罰を軽視していたことがわかった。

              そして、その反省は生かされず、
              バスケットボール部部長の自殺。

              この構造を見ていると、何かに似ている…。

              そう、原発と同じ。

              原発内で事故が起きているにもかかわらず、
              それを報告せず、データを改ざん。
              その事実を告発しても軽視され、
              挙げ句の果てには、告発者が職場にいられなくなる。
              ことの重大さが現場でまったく実感されず、
              だんだん麻痺してゆく。
              そして、ほんとうに大事なことが何か忘れ去られ…。

              事故!

              ということは、教育の現場もメルトダウンしている。

              というか、この生徒はメルトダウンさせられてしまった
              ということになる。

              自殺ではなく、他殺であろう。

              直接的には、顧問教師の責任であろうが、
              やはりこれは教育の責任であろう。
              社会の責任であろう。
              深い認識が必要になると思う。

              大阪市長は、その後たいして出てきていないようだが、
              いまごろどのような思いでいるのか。

              現場の教師のせいに済ますような市長では
              なんの解決にもならないのは言うまでもないでしょうけどね。





              これじゃ体罰もなくならないよね。

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                某月某日


                堂々と体罰を肯定している人がいますので、紹介いたします。




                自民党の伊吹衆議院議長。
                この人確か、文科相もやったことのある人ではありませんでしたか。

                元文科相からしてこの発言。

                これじゃ、体罰というより暴力が学校の中から、
                いや教育の中からなくなるはずはないよね。

                こうなってくると、なぜわれわれの社会から体罰がなくならないのか、
                相撲の世界でもそうだったし、
                学校でもそうだし、
                柔道でもそうだったこの暴力式教育が
                どうしてなくならないのか、
                を考えるべきではないかと思いますね。

                体罰はいけない、
                体罰したら罰を与える、
                法律で体罰を禁止する、

                といったことだけでなく、なぜ、禁じられていながら
                それがまだ行われているのか、
                体罰で支配して、それで人間の力は引き出されるはずないのに、
                そんなことはどう考えてもわかりきっているのに、
                それが用いられるのか。
                なぜそんな頭の悪い方法が大事にされるのか。
                なぜ、そんな頭の悪い人間が衆議院議長になれるのか。

                日本という国はどうなっているのか。

                そういうことをわれわれは考えるべきだと思うんだけど。

                どうでしょう。

                ま、この伊吹氏が文科相を務めていたときから
                日本はメルトダウンしていたんだね。

                ほんと、こうなることはわかっていたことなんですね。




                携帯メールの影響

                0
                  某月某日


                  NHKニュース。

                  文化庁の調査で、携帯電話による人間関係のあり方が変わってきた、
                  というニュース。


                  まあ、こんなところでしょうね。

                  映像で、スマートフォンを使う高校生が映し出されていたけど、
                  やたらに文字を打ち込むのがはやかったもんなあ。
                  どんだけ使い込んでるんだろう、と思うよ。
                  自分が高校生だったら、そんなことをやってる間に、
                  少しでも本を読んだり、音楽を聴いていたいと思っただろうけど、
                  今はそうでもないんだろうねえ。

                  というわけで、小生は携帯は持っているけれど、
                  ほとんど携帯メールは使いません。
                  あれを使いこなせるようになりたいと思わないし、
                  だいたい、長いセンテンスを打ち込む機械じゃないしね。
                  短いセンテンスなら、口頭で十分と思うんだけどな。

                  ただ、こういうことは言えると思う。

                  メールの影響かどうかはわからないけど、
                  最近の若い人は、長いセンテンスでものを述べることができない。
                  というか、長いセンテンスで語ろうとしない。
                  長いセンテンスで人に聞いてもらえるような話し方をしない、
                  と言い換えてもいいかな。
                  状況に依存しながら、短い言葉で、感覚的に言っておわり。

                  まあ、それはそれでいい面もあるんだろうけど、
                  普通私たちの社会って、不特定多数の人々を相手に成り立っているわけで、
                  それを前提にすれば、
                  そういう不特定の人達に対してもわかりやすく、
                  うまく理解してもらえるように丁寧に話しかけ、
                  言葉を用いることを求められる。
                  と、考えれば、メール的な短い言葉だけしか使えないようでは、
                  将来が思いやられるなあ、という思いはある。

                  息の長いセンテンスで、
                  情緒がこもっていて、
                  しかもリズムがよく、
                  上質のユーモアがあり、
                  どことなく温かさが感じられ、
                  同時にたたずまいに凜とした潔さが感じられるような文章。

                  メールでこういうものと出会うのは無理だもんね。



                  子どもを大切にしない国の行く末

                  0
                    某月某日



                    OECDが、日本の教育について警告を発しているというニュース。
                    日本の教育費の家庭の負担が他国に比べて大きいという指摘。

                    まあ、こんなこと今知った話じゃないんだけれど、
                    データを見てみると、確かに負担は大きいですね。


                    一言で言うと、
                    日本は教育に公的な資金を投資しない国。
                    つまり、国全体として、
                    子どもを大切にしないというポリシーを持っている、ということになる。

                    教育というのは、医療や福祉などと同じく、
                    円滑な社会生活を営むためにひじょうに重要な共通資本のはずなのだけれど、
                    もう、個人の生活確保の手段になってしまっているんですね。
                    これじゃあね。
                    子どもはあまりにもかわいそうだよ。
                    だって、うまれてしばらくすれば、すぐに競争の中に放り込まれるわけだし、
                    その競争だって、お金持ちがたやすく勝利することがわかっているゲームなんだから。
                    まあ、お金持ちの子どもがほんとうに賢いかどうかは、
                    わからないんだけどね。

                    いずれにしても、個人の教育費の負担が大きいとどうなるか。

                    あんまり子どもを生みたくなくなりますね。単純に。

                    子どもは国の財産、
                    なんていうけど、全然嘘じゃん!

                    まあ、日本の女性はそんなこととっくに承知であるから
                    今日本で、少子化がどんどん進むわけですよね。

                    つまり、少子化問題は、
                    全然問題でも何でもなくて、
                    単なる「結果」でしかないということ。
                    問題はなにかといえば、
                    少子化を進める「日本という国の根底的な何か」ではないのかな。

                    だいたいね、
                    世界でこんなにまれにみるいじめの多い国ですよ。
                    進んで子供を産んで育てるのは、
                    けっこう勇気が要ることです。

                    それからフクシマにしても同じ。
                    福島市は10月から、18歳まで医療費が無料になる予定。
                    でも、これだって、医療費を無料にして、
                    できるだけ福島市から住民が転出しないように
                    という経済的な判断からであって、
                    子どもの健康を心底配慮してのことではないだろう、
                    と大いに勘ぐってしまうようなところがある。
                    つねにお金の問題で換算される子どもたちだ。

                    そして、子どもたちもそういう価値観に
                    どっぷり浸かってしまっているようにも見える。

                    まあ、OECDという組織も、
                    経済協力開発機構、という名を持っているから、
                    物事を経済優先に考えるところであって、
                    ここのいうことを真に受けてもしかたないところがあるんだけれど、
                    でも、そういうところからも警告を受けてしまっているという日本。

                    教育にもっと公的資金をつぎ込むしかないと思うけどね。

                    というか、そもそも、
                    教育とは「社会的共通資本」なんですよね。
                    個人が私有して、個人がそこから利益を生み出すものじゃないんだよね。
                    みんなのもの。

                    その考えからもう一回やり直すべきだと思うんだけれどね。





                    文化祭の「文化」とはなにか

                    0
                      某月某日


                      文化祭の季節。

                      まあ、学生の立場からすれば、
                      たとえば高校などによっては、3年に一度しか行われなかったりするわけで、
                      とすれば、
                      かけがえのない青春の1ページ、
                      仲間との友情の絆を結ぶ絶好の機会、
                      ともなるわけなんだけれど、
                      ただ、客観的に見てみると、
                      いや、この場合客観的ということはあり得なくて、
                      もっと具体的にいえば、
                      ごみ収集会社の社員からしてみれば、
                      たった1日の文化祭のために出るごみの量を見ながら、
                      このごみの量そのものが文化なんだな、
                      と実感するに違いないと思う。

                      つまり、この視点からすれば、
                      文化とは「消費文化」ということになる。

                      と考えると、ちょっとしらけてしまいますね。
                      でも、間違いなく、文化祭における「文化」とは消費文化、
                      もっといえば「蕩尽」ということになるわけですね。
                      江戸っ子風にいえば
                      「宵越しの金はもたねえぜ」
                      という感じでしょうかね。
                      まあ、それで経済活動は回っていくんだろうけれど。

                      ただ、一回限り、一日限りで使い捨てられたベニヤ板とか、
                      角材とか、ガムテープとか、段ボールとか、
                      買ったけれど使い余しのペンキとか、
                      その他諸々、無駄になっちゃったなあ、という思いはあるなあ。
                      これはどうしようもないんだけれどねえ。

                      こういう形の文化祭って、いつから始まったんだろう?
                      やっぱり高度経済成長期の頃からだろうか?

                      まあ、若い人達の「蕩尽」的文化祭がまったく悪いとはいわない。
                      でも、そういう蕩尽的消費的な文化ではなく、
                      ものを作り上げていく、創造的な文化の側面をもっと見たかったとは思う。

                      ただでさえ、今の若い人って消費者としての自我のほうが強くて、
                      自分自身の価値観や互いの人間関係を作り上げる力に弱いといわれている。

                      文化といったときに、何を持って文化とするか。
                      そこから始めなければいけない時代になっているんじゃないか。

                      消費文化からいかに離れるか。
                      消費文化をいかに乗り越えるか。

                      これからは文化祭をそういう目で見ていくことにしよう。




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